戦中から戦後の半世紀余りを中国で過ごし、『毛沢東選集』や『鄧小平文選』などの日本語版の
翻訳出版に携わってこられた中国中央編訳局の老専門家・川越敏孝(かわごえ・はるたか)氏
が亡くなられたとの報せが届いた。
川越さんに最後にお目にかかったのは今年の3月31日。わたしが北京日本学研究センターでの
任期を終えて帰国する日の朝であった。
わざわざご夫婦で見送りに来てくださり、「あなたたち一家が帰ってしまうと、寂しくなるなぁ」と
おっしゃっていた。
実はそのころすでに体調に異変は生じていて、ご自分でも「いつまでもつか」と笑いながらおっ
しゃってはいたのだが、まさかこんなに早くその日を迎えることになろうとは思っていなかった。
川越さんの訃報は、いま天津で仕事をしている岳父が人づてに聞いたと、昨夜、岳母からの電
話で知った。
亡くなられたのは先月(8月)26日。入院先の北京の病院で息を引き取られたらしい。
だが、日本の新聞の訃報欄には出なかったようだ。
お名前が出てもよいはずの方である。
いや、日本そして中国のために川越さんがなしてこられた事績を思えば、出ないのがおかしい
くらいだ。
故人のために誠に残念である。
ちなみに、今年5月10日、中日友好医院国際医療部主任の葉綺先生(本名は野崎綾子さん)
のご逝去に際しては、朝日新聞などがきちんと訃報を掲載していた。
(葉先生にも北京では家族ともどもたいへんお世話になりました)
一方、川越さんは、わたしたち一家と同じ友誼賓館に住むご近所として、また、もともと妻の伯
母夫婦の親しい友人ということで、何度もお宅にお誘いいただいては、阿姨さん(アーイーさん;
お手伝いさんの意)の作る自慢の水餃子をご馳走になった。
うちの三人娘もいつも大喜びで、ご夫妻に甘え、遊んでもらっていた。
食事をしながら、川越さんの歩んでこられた道のりについて--京都帝大卒業後、大蔵省奉職
中に赤紙を受け取り、中国戦線で敗戦を迎え、戦争捕虜として徴用されてからのその波瀾万丈
の後半生について、お話を伺うのは実に楽しみだった。
川越さんの方でも、中国研究に携わる年若い後輩への餞というようなおつもりだったのか、いろ
いろなお話を聞かせてくださった。
また、わたしの研究テーマについて尋ねられ、その研究状況など次々にご質問くださり(まるで
論文の口頭試問のようで、こちらは冷や汗たらたらであったが)、現代史関係あるいはマルクス
主義関係の文献を中心に豊富な蔵書をもつ書斎には(うちの娘たちが隠れん坊をしたりして申し
訳なかったが)、日本現代史の最も重要な収穫として先年話題になったジョン・ダワー『敗北を
抱きしめて』上下巻もなにげなく架蔵されているなど、その旺盛な知的探求心はいっこうに衰え
ていないご様子であった。
日本と中国の間で、翻訳という地道な分野でたいへんなお仕事をなさってきた川越さんの事績
については、例えば『新中国に貢献した日本人たち 』(日本僑報社2003年刊)のなかの一章
「中日友好に捧げた翻訳家―川越敏孝氏」に比較的詳しい紹介があり、また雑誌『人民中国』
の2001年2月号に「新中国とともに半世紀」という記事が掲載されている。
その他、川越さんが血尿が出て入院された今年6月には、『人民日報海外版』に「戦争捕虜
から新中国の翻訳家に」という記事(2004年6月23日)が載ったばかりだった。
もちろん、これらの記事は、川越さんの遺した足跡・業績のごく一部を伝えるに過ぎない。
翻訳という、労多くしてなかなか報われない仕事に専心された後半生であったが、大学で教育
研究の仕事をしているわたしには、いつだったか、自分もそういう職場に配属されていればなぁ
と漏らしておられた。
回想録をお書きになっていると伺っていたが、翻訳ではなく、自ら筆を執られたその回想録が
なんとか日の目を見ることを願うものである。
日本と中国の現代史のなかで大きな足跡をのこされた川越さん。
心からご冥福をお祈りいたします。

2003年8月16日、川越さんご夫妻と(友誼賓館のお宅にて)
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